社会情報学がもたらす善き転回のために

東京大学名誉教授 西垣通

 近ごろ気になって仕方がないことがある。生成AI(人工知能)がもたらす「情報学的転回(Informatic Turn)」の行方だ。生成AIが経済成長の立役者になるという礼賛の声とうらはらに、下手をすると、このまま世界は奈落に向かって暴走していくのではないか。筆者にはそんな予感がしてならないのである。

 二十年ほど前、『情報学的転回――IT社会のゆくえ』(春秋社)という本を書いた。猪突猛進する情報技術によって、われわれ人間はやがて悲惨なほどロボット化されてしまうのではないか、これを逆向きに「転回」させ人間を解放するにはどうすればよいかについて、宗教的聖性とくにインド哲学にまで視野を広げて語り下ろしたのである。大風呂敷ではあっても、それは若いころ工学部出身のコンピュータ技術者だった筆者の切なる呼びかけだったのだ。だが、問題提起が早すぎたのか、同書はあまり反響をよぶことは無かった。そして現在、その懸念は急速に身近なものになりつつある。

 情報学的転回とは、分かりやすく言うと、情報を基軸として、社会の有様がガラガラと変容していくということだ。とくに、思考を組み立てる基盤そのものが問い直され、社会的価値観まで根本的に変わってしまうのがポイントに他ならない。AIを中心としたDX(デジタル変革)が盛んに喧伝されるいま、情報学的転回が起きつつあるという事実に賛同する人は多いだろう。問題はその内実なのだ。

 関連して想起されるのは、20世紀に起きた「言語学的転回(Linguistic Turn)」である。これは人間の思考自体、いや世界そのものが言語の中にある、というテーゼが前提となっている。当時の論理主義的な哲学思想と合致するこの考え方は、今も分析哲学の分野で広く認められている。なお一言断っておくと、日本の分析哲学関係者はLinguistic Turnを「言語学的転回」でなく「言語論的転回」と訳すことが多いのだが、筆者があえて前者の訳語を選択するのは、前者は後者より広く、「多元化・多様化」という側面をもつ点を強調したいからだ。

 論理主義的な言語表現を重視する分析哲学は、世界の有様を正確に論理的に表現することをめざしている。これは自然科学的な一元的(絶対的)世界観と結びつきやすい。だが一方、ソシュールの記号学が明示したように、もし世界そのものが言語の中にあるなら(つまり、言語表現とともに世界が分節化されて出現するのなら)、世界は、英語やフランス語だけでなく日本語や中国語や韓国語その他、地球上の相異なる多様な言語ごとに様々な形で立ち現れ、そこに優劣はないはずだ。これが20世紀末に勃興したポストモダニズムの多元的(相対的)な世界観であり価値観である。

 要するに言語学的転回は、一元的世界観だけでなく、多元的世界観をもたらしたのだ。これこそ、20世紀後半に文化人類学者レヴィ=ストロースが主張した構造主義的な議論に他ならない。「西洋の近代的世界観にもとづき、有色人の遅れた文化を白人が教化啓蒙してやるべきだ」という唯我独尊的な進歩主義を徹底的に批判したのがポストモダニズムだった。

 そして、もしアジア・アフリカの多様な文化の中に西洋近代文化と同じく尊重すべき面があるとすれば、言語だけではなく、音楽や舞踏や身振りといった非言語的コミュニケーション手段にも注目しなくてはならないだろう。情報の中には、論理的言語表現のみならず、身体表現と結びついた多様な感性的表現が含まれる。ここから、言語学的転回を拡張した「情報学的転回」が出現するのである。

 筆者の研究グループは「基礎情報学(Fundamental Informatics)」という分野を構築しているが、そこでは、情報とは本来、生命的活動と不可分の意味内容をもつ「生命情報(life information)」だとされ、その一部が記号と結びついて「社会情報(social information)」を形成し、さらにその一部が意味内容から切り離されてデータのような「機械情報(mechanical information)」となると定義される。ゆえに、情報学的転回は理性と感性を含む統合的な基軸をもつことになる(なお、論理に加えて身体的感性への注目をうながす「情動的転回(Affective Turn)」という言葉もあるが、これも情報学的転回に含めてよいだろう)。

 明治維新以来、西洋の「進んだ技術や文化」を摂取することだけに邁進してきたわれわれ日本人にとって、言語学的転回のもたらしたポストモダニズムの主張は深く肝に銘じるべきものだった。だが果たして今、そうなっているだろうか。むしろ、情報全体のほんの一部にすぎない機械情報のみに着目したDXばかりが唱えられ、生成AIはそれを効率化すると叫ぶ近視眼的な大声ばかりが聞こえてくる。そうなると、情報学的転回は、生命情報ではなく機械情報を基軸にした歪んだものになってしまうだろう。

 論理主義的な分析哲学にもとづく一元的世界観はもともと、データの機械的処理と非常に反りが合うのである。20世紀半ばに誕生したデジタル・コンピュータは本来、AIのような「思考機械」をめざして開発されたのだ。ハードウェア性能の制限もあって「人間のように思考する汎用機械」はなかなか成功しなかったのだが、2020年代になり、ついに生成AIの登場によってグンと実現に近づいたと信じているIT研究者は少なくない。確かに、チャットGPTに質問すると分かりやすい言葉で返答してくれるし、「今やAIは文章の文脈をとらえ、意味内容を理解するようになった」と広言する専門家もいる。だが、そこで用いられている大規模言語モデルは、単語の表層的な意味を形式論理的に関係づけているだけで、文章作成の背後にある発言の意図や動機を把握しているわけではない。だから誤情報や偽情報がいくらでも出力されてしまうのだ。

 「バカな、AIの言うことなんて信じないよ」といった油断は禁物。歴史を振り返れば、人間が自由意思で行動するより、神様のお告げに盲従する時代のほうがはるかに長かったのである。AIが神となる日は近いかもしれない。われわれが自分で思考するのを止め、生成AIのお告げに頼るようになると、いったい何が起きるだろうか。

 大切な点は、生成AIは一見すると自律性を持っているようだが、実は真に自律的に思考しているわけではなく、他者によっていくらでも操作される他律的存在だ、ということである。生成AIの内部アルゴリズムを操作できるのは一般ユーザではなく、グローバルなIT超大企業や中央集権的政府のエリートに他ならない。こうして下手をすると、圧倒的多数の人間は巧みに誘導され、実質的な自由を奪われ、地球上の富はごく一部の人々の財布に吸い込まれていくだろう。これこそ、「悪しき情報学的転回」というものだ。

 断っておくが、筆者は生成AIを全面否定するつもりは全くない。言うまでもなく、その技術レベルはきわめて高度であり、上手に活用すれば、地球上のさまざまな課題を解決する有用なツールになるだろう。初歩の外国語教育をはじめ、ローカルな活用分野はいくらでも考えられる。だが走り出す前にまず、生成AIの限界を見極める努力が肝心なのだ。単に技術的詳細を勉強するだけでなく、「人間のように思考する汎用機械」をめざす西洋の近代進歩主義、さらにその源流にあるユダヤ・キリスト一神教的思想を洞察する想像力を持たなくてはならない。

 生命情報と機械情報をつなぐ社会情報の研究こそ、望ましい情報学的転回をもたらす枢要な鍵を握っていると期待するのは、果たして筆者だけだろうか。